頭の中の日本語

試運転中

Sia「Never Give Up」のリリックビデオ!

リリックビデオ出ました!バリ島のラジオでは毎日むちゃ流れています!おお!

Sia - Never Give Up (from the Lion Soundtrack) [Lyric Video]

小さなシーアとお姉さんシーア。

迷子になっていた子供の頃の自分自身に出会ったんでしょうか?

 

この曲、初めて聴いたときからかぶりついてしまったのですが、毎日聴いてて細かなパーツの素晴らしさに震えています。

一体、この人の声はどうなっているんだろう。インド風のオープニングからタブラのようなビートが続きますが、コーラス部分のシーアの声自体がタブラみたいじゃないですか!!これでちゃんと歌詞を歌っているんだからヤバイ。柔らかい声と固くて打楽器のような声の対比とグルーブ感のあるぐわんぐわん回るような声と聴いてると自然に身体が揺れまくってしまいます。さらに2:50辺りのオオ〜!ですよ。前にも書きましたが、力が溢れてきて、腹の底から沸き上がるような、不死鳥が灰の中から再び生まれ出るような強さ。

特にタブラ声の部分はしびれまくり。シーアは声をすごく立体的に使い、硬い、柔らかい、跳ねる、伸びる、溢れる、染み込む、叩く、撫でるなどなど・・・が、歌詞の心情と一体となってて、体感的なのです!

戸川純さんの「わたしが鳴こうホトトギス」(補足追加文章あり)

「わたしが鳴こうホトトギス」をiTuneで手に入れました。アルバムを買いたいところでしたが、ここ最近、色々出費が重なっていたので、一番聴きたい新曲1曲だけ。(ごめんなさい・・・)

自曲カバーは、たぶんVampillaの編曲とオリジナルを歌った当時と今の違いに面白さがあるのかなと思うのですが、新曲で今のリアルが一番聴きたかったのです。後から他の曲も少しずつ集めていけますしね。


戸川純 with Vampillia / わたしが鳴こうホトトギス / MUSIC VIDEO

(MV出ていたので貼っておきます)

とてもよかった・・・。

歌詞にも出てきますが、本当に等身大で歌っている印象。あまりの素直さに小学校低学年の子が必死で歌っているときの無心さを感じるのですが、その中に今までの過去も全て一緒に詰まっているのが伝わってくるのです。かといって、重いわけではなく、とても可愛らしい。曲を聴いてて鴬の姿が何度も脳裏に出てきました。私が鴬とホトトギスと混同していたのもありますが、ああ、ホウホケキョウ(法華経)だなぁと思いました。

法華経ウィキペディアで引くと「蓮は、泥の中に生まれても、泥に染まらず、清浄な花を咲かせる」という言葉とともに白い蓮の花の写真があります。この歌から受けた印象はまさにそのようなイメージです。(※注:この部分に関して、大変な誤解を生む可能性を発見しましたので、文末に補足説明があります)

歌詞全体に中国の故事や歌舞伎の言葉(「楼門五三桐」この曲のクライマックスの部分ですね)などが散りばめられていて、こちらのインタビューでも語っておられましたが、古い言葉はその中に込める覚悟が違うので、必然性があって使ったとのこと、聴いていて納得しました。一つ一つの言葉に沢山の物語が詰まっているので、その言葉を確かめながら聴いていくと6分33秒の曲の中にどれだけの思いが込められているのかが実感できると思います。

今回の曲に私の知らない言葉が沢山出てきたので、意味を調べていて、私はなんだか初めて純ちゃんの曲を聴いた時、難しい言葉がいっぱいで、意味が知りたくて知りたくて、辞書を引いていた小中学生の頃を思い出しました。諦念プシガンガの「お昼のドン」とかも調べて、ちゃんと意味を分かっていましたもん。本当にせつないんですよ。「わたしが鳴こうホトトギス」の歌詞を読んでいると純ちゃんも昔と今の時間の距離みたいなものを感じているように思いますが、こちらも同じだけ長い時間をかけて聴いていますから、幼いころの自分と今の年を重ねた自分と対面せざるおえないわけで、その当時の自分が見えてくるんですね。

つい、おばさんの感傷を語ってしまいましたが、若い人も沢山聴いた後に、ぜひ言葉を調べて聴いてみていただけたらと思います。歌の世界がぐっと広がります。その歌声の「なぜ?」に対する答えのようなものに出会える瞬間の喜びは本当に個人的で素晴らしい体験です。

曲はずっと可愛いまま行くのかなと思ったら、純ちゃんが「雨乞ひの儀」をしたあとに大きく曲調が変わって激しくなる部分があって、それがまた良かったです。曲調が変わった後に純ちゃんの声が可愛いままだったのも更に良かった。その対比があったから、前述した法華経のようなイメージが出てきたんだと思います。曲を一緒に作ったVampillaさんの純ちゃんに対する愛をすごく感じました。

 

前回の日記でも少し触れましたが、今回純ちゃんが一緒に仕事をするきっかけとなったVampillaのlilacも何度も聴いています。歌詞の言葉の使い方が良いですね〜!日本の歌詞って(ラップは違うかもしれないけど)、言葉の響きをあまり気にしていないものが多いように思うのですが、Vampillaさんの歌詞は韻が踏んであるので、聴いてて歌詞の音がとても気持ちがいいです。韻を踏むと使える言葉の幅が限られてくる分、言葉の選び方に個性が出てきて面白いと思うのです。(同様の意味でアナグラムとかも大好きです)気に入ってるので、また動画載せてしまいます。


MUSIC VIDEO: Vampillia - lilac (bombs 戸川純 ) from "The Divine Move"

あと、言葉から連想する景色の変わり方も面白い。

曲の一番目は視野が空高いところに行ってから、ぐっと倍率が上がって元に戻っていきます。二番目は横にどんどん景色が流れていって、それがインターネットの上にきゅっと収まる。こういう視野の動きがあると、曲のイメージが広がります。

 

純ちゃんは、これからどんな曲を歌ってくれるのだろう。

とても楽しみです。

 

 

(※補足説明)

戸川純全歌詞解説集」を読んでいたら、この部分の意味の受け取り方が私と戸川純さんで大きく違っていたので、補足説明をいたします。(いきなり「戸川純さん」になっているのは、ファンレターの域を出て、一人の人間として誤解を招きそうな表現の部分を説明するためです)

戸川純全歌詞解説集――疾風怒濤ときどき晴れ (ele-king books)

戸川純全歌詞解説集――疾風怒濤ときどき晴れ (ele-king books)

 

 

「蓮は、泥の中に生まれても、泥に染まらず、清浄な花を咲かせる」 

 と私は書きましたが、戸川純さんの本を読んでいたら、石川達三の「泥にまみれて」についての記述がありました。

「泥に咲く蓮の花が美しいように、辛抱して忍耐する女こそ美しい」みたいな変なこという人もまだいたけど、私もそういう変なしつけをされたんです。

最近出たばかりの本ですし、どこまで引用が可能か分からないので、これだけにしておきますが、純さんは少女の頃に石川達三の「泥にまみれて」の文章や父親の言葉から、将来「泥にまみれて」の人のように、耐えて耐えて、諦念とか我慢とかを抱えて生きていくと思っていたらしいです。

私の使った言葉とほぼ同じ言葉が、正反対の意味として戸川純さんの心の中では存在していたので、本を読みながら「あああ〜!!あかん言葉使ってしまった。あわわわ」となりました。

私は泥に咲く蓮の花の話はOSHOの講話に感動して、そこに由来しています。

長くなりますが引用します。

蓮は泥から生じる___
もっとも美しい花は汚れた泥から生じる
このことは、汚れた泥であろうと
内側に何か美しいものを秘めていることを意味している
だから泥を拒絶してはならない
それは蓮を内に秘めている
人はこの誇り高く
これほどの色合いを持つ美しく優雅な花が
ありふれた泥から生じるとは
思いもよらないだろう
人間はありふれた泥として生まれるが
内側には蓮の花を秘めている____
まさにその種の状態において
人は拒絶されるべきものではない
人は受け入れられ、変容をとげる必要がある
この世界を否定する必要はない
それは限りなく美しい何かをはらんでいるのだから
それは表面にあるものではない
それは表面にまで浮上させる必要がある

だから私はどんなものにも抗わない
肉体にも世間にも、外界のものにも抗わない
私はすべてに抗うのではなく
すべてを変容させるためにここにいる
存在からの贈り物にはどんな物であろうと
何らかの価値がある
その価値を理解できないとすれば
それは私たちの落ち度であり、狭い視野のせいだ
蓮について心に留めておくべき二つめのことは____
それが水の中に生息しながらも
水に触れられることはないということだ
蓮はビロードのような花びらを持ち
たとえ露滴が花びらの上に溜まろうと
水滴ははじかれている

世の中に生きなさい
だが世間をあなたの中に浸透させてはならない
世の中に留まりなさい
だが世間の一部とはならないことだ
離れていなさい
クールであり、常に一定の距離をおくことだ
そうすれば、この世界は実に多くのことを教えてくれる
この世界は存在のあみだしたもの
成長し、成熟を遂げるための学びの場なのだ

 

特に好きな部分は「人間はありふれた泥として生まれるが、内側には蓮の花を秘めている」です。

戸川純さんに影響を与えた「泥に咲く蓮」の意味は「辛抱して忍耐する女こそ美しい」ですから、「蓮になるためには辛抱や忍耐が必要」ということになってしまうのですが、私が思っていた「泥に咲く蓮」は「蓮は泥の中にあっても汚れずに美しい花を咲かす」で、「どんな環境も蓮の魂を汚すことは出来ない」という解釈です。

なので、この部分で私が言いたかったのは「何事も純ちゃんの魂を汚すことはできなかった。今、実に見事な蓮が咲いているなぁ」ということです。

全ての人の中に蓮の花はあると思うのですが、「泥にまみれて」蓮の芽が潰されてしまうこともあると思います。蓮の魂を失わなかった人だけが「泥にまみれず」蓮の花を咲かせるのだと思います。

以上、この部分は誤解を生んでしまったら、非常に残念な気持ちになるので、補足いたします。

 

戸川純さんの言葉が胸にしみる

ツイッターリツイートされていて知り、戸川純ちゃん(タイトルは「さん」にしていますが、私にとっては「純ちゃん」なのです)のインタビューを読みました。

www.cinra.net

読んでいて、この人の誠実さ、ひたむきさが胸にしみて、生きている切なさ素晴らしさを噛みしめるような、なんとも言えない気持ちになりました。

純ちゃんは自分について書かれた他人のブログとかを読むことがあるのだろうか?もしそんなことがあるなら、私も今までの人生の中でおりあるごとに触れてきた純ちゃんの歌によって「救われてきた」と伝えたいな。

 

純ちゃんの歌との出会いは小学校6年生のときだったと思います。お友達のお姉さんがアルバム「玉姫様」のダビングテープを持っていたのがきっかけでした。今まで聴いてきた音楽とは全然違う歌の面白さに惹かれてそれをダビングさせてもらいました。

それまでは普通に当時のスター達、中森明菜やジャニーズの曲やチェッカーズなどを聴いていました。チェッカーズは大好きだったけど、ジャニーズは皆に合わせて無理をしている自分にどこか気がついていて、でも話を合わせるために必死だったように覚えています。

小学校高学年の女の子の心の中で「生理の始まり」は一大事だった。私は少し早く生理が始まり、それをどんな風に自分の心の中で位置づけたらいいのか分からないまま、悩ましいものとしていました。そんな時に「玉姫様」を聴いたのです。この歌は生理のことを「発作」とよんでいて、それによって女の子は怪物みたいになってしまう。

面白い面白い!!と私は無邪気に喜びました。続けて純ちゃんは、その状態を「神秘」と歌います。それには何か不思議な、理解を超えた、清いものを感じさせてくれたのです。私の「生理」は悩ましいものから、冒険的な、強さを感じさせてくれるものに変わりました。


戸川純 玉姫様

それを機に戸川純ちゃんの世界にすっかりハマっていきます。

アルバム「玉姫様」のダビングテープは、テープがのびるほど聴きました。「怒涛の恋愛」や「諦念プシガンガ」や「蛹化の女」も大好きでした。そういった曲を聴いて、まだ夢見るだけの「恋愛」が私に何をもたらすのか思いにふけりました。

お小遣いを貯めて、その頃、純ちゃんが出した「戸川純の気持ち」という本も買って、当時、自分のバイブルのように何度も読み返しました。

戸川純の気持ち

戸川純の気持ち

 

 

この本を通して、バタイユの本、クリムトの絵、ピストルズなど色んな事を知りました。「漠然とした不安」という言葉もこの本から知って、学校の作文で伝えきれない不安感を表現するときなんかに使っていました(苦笑)。早速ピストルズを貸しレコード屋さんに借りに行き、「SEX」と大きく書かれたレコード・ジャケットを借りる時の全身が真っ赤になるような気持なんかも思い出します。

そんな感じで、他のミュージシャンの色んな音楽を聴きながらも、その後も純ちゃんの歌や言葉と共に過ごしていました。このビデオとかも好きだったなぁ。

ヤプーズ計画 LIVE&CLIP+2 [DVD]

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ゲルニカももちろん。

改造への躍動~特別拡大版~

改造への躍動~特別拡大版~

 

 純ちゃんの写真集を買った時は、コピーして部屋中に貼り付けました(映画「プリック・アップ」の部屋みたいにしたかった)。本はこれだったのかなぁ?(違っていたらすみません)目に包帯を巻いていた写真が好きだった。

戸川純JUNTOGAWAASONLYALUMPOFMEAT (fukkan.com)

戸川純JUNTOGAWAASONLYALUMPOFMEAT (fukkan.com)

 

 

最初に付き合った少し年上の彼氏は音楽にとても詳しく趣味が近かったので、純ちゃんの音楽との関係もすくすく育っていたのですが、そのあと、出会った途端に強烈に好きになってしまった人は、音楽がやはりすごく好きな人だったのですが、純ちゃんが好きではありませんでした。しばらくは隠れて聴いていたけど、それがきっかけでだんだんと純ちゃんの音楽から遠ざかってしまいました。私がその人に対する気持ちはまるで純ちゃんの恋愛歌のようだったのですが。

そして年月が経って、その人とも生き別れ(失踪したので)、バリ島で今の旦那に出会いました。旦那は歌う人だったので音楽は大好きですが、私が聴く音楽をひやかしたりはするけど、何を聴いているかあまり気にしない人でした。私も自然にもともと好きだった音楽も聴くようになりました。

しかしバリ島に純ちゃんの音楽も持ってきていませんし、インターネットはメールを読むのがやっとの状態で、なかなか聴く機会がありませんでした。その後、バリ島のインターネット普及で、だんだんYOUTUBEが見れる時代になります。

そして思い出したのが「赤い戦車」でした。この曲が入っている「ダイヤルYを廻せ!」の頃は、すでに前述の彼氏と付き合っていたので、あまり聴く機会は無かったのですが、なぜか猛烈にこの曲を思い出したのです。「ヒステリア」と共に。

ダイヤルYを廻せ!

ダイヤルYを廻せ!

 

そんなことで 、ときどき「赤い戦車」を聴いていました。

そして、日本に用事で一人で帰っている時、電車の中で「赤い戦車」を聴いていたら、ある記憶が甦ったのです。旦那との喧嘩の記憶だったのですが、喧嘩という言葉にすら出来ないような、妄想のような事実無根の疑いをかけられたことを思い出しました。当の旦那ですら、どうして自分がそんな風になったのかわからないようですが、私は想像を絶する嫌な思いをしました。そして、あまりにも嫌だったので、その時の記憶を失いました。それが「赤い戦車」を聴いていたらふと甦ってきたのです。

自分が記憶を無くしていたのに驚き、その恐怖体験の記憶が甦りました。そんなことを忘れて済ましてはいかん、ということで、その日にバリ島の旦那に電話をして恨みつらみを吐き出しました。

このことから「赤い戦車」はそんな精神崩壊の境界線上に存在した歌なのだと気が付きました。例えば、私の精神が耐えられないような辛い時、そこには生と死を隔てる崖があると思うのですが、その崖っぷちから生きることを歌う純ちゃんの姿が見えるのです。

純ちゃんがインタビューで答えている通り、歌は全て純ちゃんの純粋な気持ちを通して語られるだけで、応援したりしているわけではありません。

応援出来るということは、歌っている人はすでに別の場所にいるのです。純ちゃんの歌は同じ場所にいるからこそ、他人にとってもリアルなこととして伝わってくるのだと思います。そして彼女は生きている。私も生きれるんじゃないだろうか?と彼女の歌を聴くと思うのです。


Yapoos (ヤプーズ) - 赤い戦車 (Red Tank)

 

 新しいアルバムが出ました!

わたしが鳴こうホトトギス

わたしが鳴こうホトトギス

 

 

このアルバムを出すきっかけとなったVampilliaとのコラボ


"lilac" Vampillia feat Jun Togawa(official MV) LP out in 2016

 

純ちゃん、これからも末永く歌って下さいね。

そして、歌だけではなく、演じているところや、文章も拝見できることがあったら嬉しいです。

www.ele-king.net

www.ele-king.net

私は蜷川さんのことを全然知らなかったのですが、この追悼文も純ちゃんの心からの言葉に胸がいっぱいになりました。

クリシュナムルティ

このところすっかりハマって読んでいます。

以前、クリシュナムルティが大好きなお友達から「しなやかに生きるために―若い女性への手紙」という本を借りて読みました。

しなやかに生きるために―若い女性への手紙

しなやかに生きるために―若い女性への手紙

 

 

書いてあることは素晴らしいと思ったが、ほぼ全て忘れてしまいました。あまりにも当たり前のことが書いてあるように思って、「これだとクリシュナムルティがどんな人なのかわからない!もう少し人柄が見えるものを貸してくれ〜」といったところ、数年かかって(彼女の本の整理はバリ島に越して何年も終わらない・・・)「私は何も信じない―クリシュナムルティ対談集」という本を借してくれました。

 

私は何も信じない――クリシュナムルティ対談集

私は何も信じない――クリシュナムルティ対談集

 

 

最初に読んだ時はクリシュナムルティがどんな人なのかイメージしきれなくて、この人、沢山質問ばかりするので、どんな口調で話しているのかわからないし、質問攻めでなんか辛いかも!!というのが、最初の印象。頭の中で井上陽水の「夢の中へ」の歌詞がぐるぐる廻る。何を言わんとしているのか、その言葉が入ってこない。見えない。

最初の読書の後、色んな人のブログ記事を読んだりしましたが、その魅力が掴みきれず。クリシュナムルティのプライベートのスキャンダルの記事なども読んで、色々疑う。

でも、これは私が理解してからでないと、判断は出来ないだろうと思い、まずクリシュナムルティがどんな風に話しているのか、何を言おうとしているのか、それを知らないとダメかもと思いYOUTUBEを探しました。

その時に見たのがこの動画です。日本語字幕付きがとても嬉しい!!


「瞑想をする前に」~クリシュナムルティ

 

うわー、凄いラジカルです!!この人は物事を飛躍させない。一つ一つ丁寧にまず、「今、自分がその場所にいる」理由を問うのですね。その人から一番近いところから入っていって、理論的に「瞑想に必要ないもの」を導き出したときの嬉しそうな顔がなんとも可愛い。まるで遠足前の子供のようです(「お菓子は300円までです!」と字幕をつけたくなる)。この動画を見て、ようやくクリシュナムルティが読めるようになりました。そして、この人のプライベートの問題は気にならなくなりました。それはこの人が一生かけてした仕事と少し分けて考えたほうが良いと思う。大切なことを伝えることが仕事で、自分も含め、全ての人がそれが出来るようになることを目標としていたからだと思うのです。私の大好きな西式甲田療法の甲田先生も一生をかけて健康な人が増える努力をしましたが、その療法がどれほど難しいか、本人もよくわかっていたので、自分のような凡人がこれ(西式甲田療法)をするのは大変なことだとおっしゃっていました。でも、人を幸せや健康にするために伝えなければならないことがあったら、それを一生の仕事とするのは誠実な態度だと思います。

 

このビデオでは、瞑想しようとしている人が求めそうなものを瞑想の前にはっきりさせています。つまり何かを求めて瞑想をする場合は、その求めているものは瞑想とは別にして探しましょうと言うことです。 

でも、この瞑想を始める準備はそう簡単なことではないかもしれません。

このお話を聴いて、養老孟司先生の「挨拶ができなかった理由」を思い出しました。

 

自分は死なないと思っているヒトへ―知の毒 (だいわ文庫)

自分は死なないと思っているヒトへ―知の毒 (だいわ文庫)

 

 

養老先生は小さい頃にお父さんを亡くします。その後、人に挨拶をするのがとても苦手だったそうですが、40近い頃にそのわけに気が付きます。挨拶をするのが苦手だったのは父親の臨終の際に「さよなら」が言えなかったことと関係するのではないかと。父親にさよならの挨拶ができなかったのに他人にするわけにはいかない。しかし、それでは説明不足でした。そして更に10年ほど経過し、ある日父にさよならを言わなかったのは、4歳の子供が出来る父の死に対する唯一の抵抗で、それによって心のなかの父は「今でも生きている」ということに気がついたそうです。そこで、父にさよならをした瞬間に父は死んでしまうので、その死を避けるために挨拶にこだわっていたと。それに気がついた時に、「私の中の父は死んだ」と思い、涙がさっと出ていたそうです。

 

養老先生は挨拶が出来ない理由を探すことで、「父」を探していたように思います。心のどこかに挨拶をしなかったお父さんは生きているので、常に自分に影響を与えているのですが、生きていることすら気がついていないので、何が自分に挨拶が出来ないようにしているのかがずっと分からなかったのです。私も似たような経験があるので養老先生の話を読んで、本当にしみじみとしてしまいました(いつか自分の経験もブログで書きたいです)。

 

クリシュナムルティに戻ります。

そんな訳で、今はクリシュナムルティの言葉が、やっと読めるようになったので、只今2回目の読書中。最初に読んだときとぜんぜん違う〜(涙)。この本「私は何も信じない」は対談集なのですが、余計なおしゃべりに話が逸れそうになると、速攻元に話を戻したり、対談者と出来る限り必要なことを話さなければ!という態度が真摯です。

人は色々な問題を抱えて生きていますが、その問題を明確にすることはとても大事なことだと思います。なぜなら悩んでいる時というのはその問題が明確でないからです。問題がわかったら、あとはどうしたら問題が解けるようになるのか、それに向かって一直線です。そこには物理的な苦労はあるかもしれないけど、心を悩ませるものはないからです。

(追記:最後の部分は言い過ぎました。悩みはカビみたいに、ちょっとでも隙があれば、すぐに生えてくるなー)

最近のヘビロテ。SIAの曲が本当に素晴らしい。

iTunesに最近のお気に入りのシーアの曲をプレイリストにまとめて延々と聴いています。最近のシーアはツイッターで呟くこともすっかり少なくなってしまったので、彼女が日々何を考えているのか、彼女の曲からしか推測できませんが、歌声を聞く限りのシーアは何やら凄いです。

先日、旦那さんのエリック・アンダース・ラングと別れた報告をしたシーアですが、歌声からはそれが彼女の心を酷く傷つけたようには感じられません。もちろん別れるくらいだから色々大変な思いなどはしたと思うのですが、最近のシーアはどの曲を聴いても自立した一人の人間像が浮かんできます。

以前は何かショックな事があると、うわぁあああとなったり、繊細で傷つきやすく不安定な感じで、シーアの歌声を私はよく「ぶら下がる声」と言っていたのですが、人の心にくっついてぶら下がってくるような甘えた感じがありました。それがなんとも愛らしいので、そこも大好きでしたが、Jesus Weptを聴いて、大人になったなぁとしみじみしたものです。(少し自分的には寂しい気分でもあったので、私の心の中で「甘えたシーアの心」のお墓を作って追悼していたりしました・・・)

「1000 Forms of Fear」のときの痛々しい叫びは、シーアの苦しみが極限まで来ていることを感じさせて、声色も今までと違い聴いてるほうも辛かったです。特に「シャンデリア」はシーアの歌声を丸裸にして解体するような引きちぎられるような痛みがありました。昔の曲から順に聴いていくと、過去の曲は辛くてもシーアから自発的に出ているのに対して「シャンデリア」には何か受動的な辛さを感じました。

その後、皆にシーアの歌声が支持されて、精神状態が落ち着いてからは、強く歌い上げるときでも、優しい元のシーアの声に戻っていきました。

そこで、最近の曲なのです。さらにパワーアップ、さらに心ある曲、さらに可愛い声、なのに一人でしっかり立っている感じで、バリエーションも豊か。悟りでも開いてしまったのでしょうか・・・素晴らしい曲が満載です。

あと、何よりも大きな変化は、以前のシーアの歌は自然の中で聴くのに合わなかったのが、最近の曲は自然の中でもいけるかもしれない、というところです。

自分が音楽を聴く時に大きな基準にしているのに、大自然の中(バリ島の渓谷の景色とか、夜空の天の河とか)で聴くというのがあります。大自然の中で聴いて、その自然が歌っているように聴こえるものは、個人の意識を超えたとことにある何かを抱えていると感じて、そういった曲に私は信頼を寄せています。曲が曲を超えて、万華鏡のように意味の多様性を出してくるので、そのメロディ、その歌詞が深い意味合いを展開させてくるのです。ケイト・ブッシュの歌などはどれを聴いても、自然そのものが歌っているように聴こえてきます。

シーアの歌は都会的で自然の中で聴くと「自分でいっぱい」という感じで、こんなに自分がいっぱいだと辛いだろうなとよく思っていました。でも、彼女の心は自分の音楽の聴き方の例外を作るほど、とても魅力的でした。ディプロの作る音はプリミティブなので、ディプロの音と合わせたらなんとか自然の中でもいけるな、という感じ。グレッグ・カースティンだとシーアと方向性が近いので、自然の中だとちょっとキツイなぁと思っていました。

しかし、最近のシーアの曲は(まだ大自然を前にして聴いていないのですが)、ウブドの渓谷の景色を思い浮かべながら聴いても、その中に入っていける感じがあります。彼女の心のなかに自然が入ってきている感じがするのです。

前置きが長くなりましたが、こちら最近のヘビロテ。全部今年の曲です。曲が発表された順に貼っておきます。(今年に発表の曲全てを貼っているわけではありません。沢山ありすぎて、貼りきれないので)

 

Sia - Freeze You Out (Music Video)

Freeze you out は下に乗せた曲とは少し心境が違いますが、美しい曲で大好きです。

 


Sia - The Greatest

 


Sia - Confetti (Audio)

 


Sia - Jesus Wept (Audio)

 


Sia - Never Give Up (from the Lion Soundtrack)

 2:50の腹の底から湧き出るような「オオ〜」とか、不死鳥の如し。

 


Sia - Angel By The Wings (from the movie "The Eagle Huntress")

 

なんか凄い境地!ああ!

 

 上で紹介したThe Greatest 、Confetti 、Jesus Weptは「ディス・イズ・アクティング(デラックス・ヴァージョン)」に入っています。

ディス・イズ・アクティング(デラックス・ヴァージョン)

ディス・イズ・アクティング(デラックス・ヴァージョン)