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頭の中の日本語

試運転中

アルフレッド・ジャリの「超男性」くらい面白い小田嶋隆さんの「イン・ヒズ・オウン・サイト」

小田嶋隆さんは内田樹先生の本で知りました。とりあえず日経ビジネスオンラインの『ア・ピース・オブ・警句』から読み始め、凄く面白かったので、何かもっと強烈なのが読みたくなり、目に止まったのが小田嶋さんの個人ブログをまとめた本「イン・ヒズ・オウン・サイト」でした。

イン・ヒズ・オウン・サイト

「イン・ヒズ・オウン・サイト」は1998年のブログ記事から始まります。逆算するとほぼ今の私と同世代。少し昔の本でもやっぱり同世代の人の文章というのは読みやすい。アル中から生還した小田嶋さんの文章は皮肉なことに酒のツマミにもってこいなので、休日前の夜などにワインを飲みながら読んでいました。

ブログだから日常のことなども綴られていて、それがとんでもなく面白い。
例えばこんな風。

 再インストール 

夕刻Windows95がクラッシュ。またしても、再インストール。おそらく、このマシンの主たる用途はインストールということになるのであろう。
「パソコンをお持ちなんですか?」
「はい」
「何に使ってるんですか?」
「うーん、主にインストールとかですね」
「はぁ?インストールってなんですか?」
「まあ、クルマでいえばエンジンのオーバーホールかなあ」
「・・・・・・というと、走らないんですか?」
「いえ、走ることは走るんですが、走ることそのものより、走れる状態に整備しておくことが一番大切なわけです」
「意味がわかりませんが・・・・・・」
「わかっていたらこんなもん使ってませんよ」
 

ぶぶーって本当に音を出して吹き出してしまった。
今はソフトインストールとかでPCが固まることはそれほど無いですが、確かに90年代は酷かった。これ冗談じゃなくて結構頻繁にあったことなんですよね。

そうして、ある時、この面白さは「超男性」以来だということに気づきました。

 

「超男性」はアルフレッド・ジャリが1901年に書いた小説です。
これがまた100年以上昔に書かれた本なのにのけぞるほど面白いのです。
「超男性」についても以前から書きたいなーと思っていたので、これに便乗して一部ご紹介。
小田嶋隆さんもアルフレッド・ジャリも面白さを上手く説明できないので、引用するしか出来なくてすみません。
以下は主人公マルクイユが12歳の時に洋服を仕立てる部分です。

それにまた、洋服屋の見たところでは、自分の仕立てた洋服がよく合っていなかった。ベルトの下で、何かが不格好な大きな皺をつくっていたのである。洋服屋が当惑げに何事か母にささやくと、母は赤くなった。そこでマルクイユは、自分が一種の不具であること     そうでなければ自分の前で、あんなに声を低めて自分のことを話題にするわけがなかった。     自分が普通の人間のような身体ではないことを、おぼろげに覚ったのである。
「大人になったら普通の人間のようになりたい」、これが一種の固定観念になった。
「右寄りですね」と洋服屋は、病人をおびえさせないために、謎めいた言葉を洩らした。
たぶん、彼は心臓が右側にあるのかと思った。
しかしそれにしても、大人になったからといって、心臓がベルトの下にくることがあるものだろうか?
洋服屋は相変わらず困ったように、悪意があるわけでもなく、その親指で異常な場所を撫でていた。
その翌日、仮縫いの寸法を直してふたたび試着してみたが、新しい寸法でも依然とぴったり合わなかった。
というのは、右側と左側のあいだにもうひとつの方向、上向きという方向があったからである。

一番大きなものをひっくり返すと一番小さなものが出てきて、一番小さなものをひっくり返すと一番大きなものがでてくるような、あり得ない思考回路の入れ子構造が次々と展開されていくのです。

こちらも「超男性」の一節です。

神は無限小である。
誰がこんなことを主張するだろうか。
断じて人間であるはずはない。
なぜかと言えば、人間が神を造ったのであり、少なくとも人間の信じている神を造ったのであって、神が人間をつくったのではないからだ(それは今日では規定の真理である)。人間は自分の姿に似せて神を造り、人間の精神が考えられないダイメンションにまでこれを拡大したのである。
と、いっても、人間によって考えられた神に、ダイメンションがないというのではない。
神はあらゆるダイメンションよりも大きいが、だからといって、あらゆるダイメンションの外にあるのではなく、非物質的でもなければ無限でもないのである。神は無限定でしかないのだ。
<中略>
定理。神は無限小である。
なぜならば、神が神であるためには、その創造が無限に大でなければならない。もし神が何らかのダイメンションを保持していたとすれば、神はその創造を限界づけることになり、もはや神はすべてを創造した者ではなくなってしまう。
だから神は、世界のいかなる場所においても自分のために留保することがない、その善良さ、その愛、その全能を誇ることができるのである。神は内側において、あらゆるダイメンションの外にあるのだ。
それは一つの点である。

おおお、百年前にビッグバンを思考で導き出している!!
惚れ惚れするほど頭がいい。と、同時にそのオチの付き方はガクガクと膝が笑い、フルフルと肩が震えるものとなっているのです。

小田嶋隆さんの本を読んでいても、同種の面白さ鋭さを感じるのです。
ジャリも小田嶋さんも酷いアル中でしたが(ジャリは死に、小田嶋さんは生還)、小田嶋さんが幾つかの著書で書かれているように「アルコールが才能を呼ぶ訳では無い」と思いますが、この手の才能を持った人は、アルコールが必要になってしまう気質と何か関係があるのかもしれない。

文章にギアが入ると凄いスピード感があって、その思考や文章のテンポとか、崩壊したかと思うと、予測できないところから忍者のように現れて着地し、自分の考えに自分でオーバーテイクしようと試みる暴れっぷり。
うーん、あまり本を読んでいないからかもしれませんが、なかなかこう言う文章を書く人には出会えません。刺激的だったり面白かったりするものはあるのだけど、全体で見た時にこの手の鋭さはなかなか感じられないのです。

最後に共感してガンガン頷いてしまった「イン・ヒズ・オウン・サイト」の一部を。

 MP 3 

デビッド・ボウイのMP3ファイル作成事業を開始、
単独アーティストシリーズの第一歩をボウイから始めたのは、要するにハサミがいれやすいからだ。ボウイについては、一時期、偏愛していたものの、総体としては「感心はしていても、崇拝はしていない」というのか、つまり、作品本位で接することができるわけだ。
ダメなものはダメ、と、ボウイに対してなら私は決然といえるのだ。てなわけで、ボウイ選集は、13枚のCDから57曲を選定して、以外にすんなりと出来上がった。Let's Dance以降の曲は、男らしく排除した。この人の場合、どの曲もそこそこにデキが良くてバラつきがないという意味では、選定に苦労するのだが、どこか仕事に心のこもっていない感じがする分、佳曲を切り捨てても、心が痛まないわけですね。
ディランとかジョン・レノンに対しては、どうがんばっても批評的になることができない。是々非々なんて恐れ多い態度で接することなど、到底考えられない。常に全面肯定の是是是是である。
ディラン原理主義。レノン訓詁学。サージェント・ペパー無謬説。である。
この人たちに対しては、私は、こじれた片想いをもてあましている中学3年生みたいなぐあいに、相手のことを考えるだけで、冷静さなんてどこかに吹っ飛んでしまう。だから、駄作さえ割愛できない(しかも駄作が多い)わけで、選定作業はまるではかどらないに決まっているのである。
中学生の時に作ったオープンリールのフェイバレットテープにおいても、私は「レボリューション・ナンバー9」をハズさなかった。申し訳なくて外せなかったのだ。
もちろん、あのクズを好きになることはできなかったが、だからといって、私はひとっかけらもジョン・レノンを責めなかった。むしろ「レボリューション・ナンバー9」の真価を把握できない自分の耳の貧しさを責めていた。ファンというのはそうゆうものだ。

上のファンの心理、そのまま小田嶋さんとジャリの文章に捧げたいです。
 
 

イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド

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超男性 (白水Uブックス)

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このお二人の文章と一緒にどうぞ。