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頭の中の日本語

試運転中

昨日書いた小田嶋隆さんの続き。

昨日の日記で小田嶋隆さんとアルフレッド・ジャリについて書きましたが、上手く説明できないもどかしさを感じながら、うんうん唸っていたら、内田樹先生が小田嶋隆さんについて書いた文章を見つけました。

http://blog.tatsuru.com/2008/04/17_2149.php

以下、引用は小田嶋さんの文章のから始まります。

 赤ん坊の頃から知っている従姉妹が結婚するという。
 私はおふくろに尋ねる。
 「で、相手はどんな人なの?」
 おふくろは心得ている。
 「慶應の経済を出て、なんだか商事といった会社でなんだかをやってる人らしいわよ」
 なるほど。慶應の経済か。
 私はわかった気になっている。
 おい、何がわかったんだ?
 わからない。
 幸せって、何だろう?
 わからない。

 私はこれを読んだときも眩暈に似たものを覚えた。
 頭がくらくらして当然だと思う。
 だって、この文では、わずか十行ほどの間に、驚くなかれ、それぞれ機能を異にする「五つの私」が相次いで登場するのである。
 「で、相手はどんな人なの?」と母に尋ねている「私」。これが「第一の私」である。
 「なるほど。慶應の経済か」と内心で独語する「第二の私」。
 「私はわかった気になっている。」と「独語する私」について外側から、あるいは上空の視座から冷静にコメントしている「第三の私」。
 「おい、何がわかったんだ?」とそれに問いかける「第四の私」。
 そう訊かれて、「わからない」と答えている「第五の私」。
 わずかな行数のうちに、まるでドリルが垂直に地中に沈んでゆくように、小田嶋隆は、「私」と語る機能の起源に向けて垂直に掘削するのである。
  
 おい、何がわかったんだ?
 わからない。
 幸せって、なんだろう?
 わからない。

 こういう言葉を書けるほど徹底的に内省的な人間は多くはいない。というか、現代日本にはたぶん小田嶋隆しかいない。賢愚とりまぜさまざまな方々の書物を腐るほど読んできた私がそう言うのだから、この判断は信用して頂きたい。(小田嶋隆、『人はなぜ学歴にこだわるのか』、光文社、2005年)

さすがだなぁぁぁ〜(涙)。こんなに説明の上手い人って内田先生しか知らないです。なんだろう、対象を見て、その核心を掴んでさらりと言いのける凄さは。